講演:「ウィリアム・ウィリス」
幕末から明治維新にかけて日本での医療活動に従事した
イギリス人医師、お雇い外国人
日時:平成 28年 5月 10日(火) 18:00~
会場:追手門学院 大阪梅田サテライト
問い:オーストラリアの旧宗主国は?
答え:イギリス
無理やりこじつけた訳ではないのですが、今回の講演はオーストラリアではなくイギリスのお話。しかも、ウィリスのひ孫で宝塚在住の、手木(てき)美惠子さんが“ご先祖”の事を語って下さるというので興味津々21人が参加しました。“幕末”“外国人”“医師”というと、私の乏しい知識ではシーボルトくらいしか浮かばないのですが、お話を伺っているうちにこんな凄い外国人が何故、日本の歴史の中で名前が残らなかったのだろう、沸々と疑問が湧いてきました。
ウィリアム・ウィリスは、1837年 アイルランドに生まれ、スコットランドで医学を学びます。外交官・医官として1859年 アフリカの喜望峰を回り香港、上海を経て来日。日本での波乱に満ちた生活が始まります。
時あたかも幕末の騒乱期、手木さんの“やさしい、淡々とした”話の中にも熱がこもってきます。公使館になっていた高輪東禅寺での事件。泊まっていた隣の部屋で、脱藩した水戸藩士による襲撃があり、ウィリスは「殺されるかと思った、日本では命がけで生活しなければいけないようだ」と述懐しているとか。
これを契機にウィリスは、様々な事件、内戦に巻き込まれていきます。その都度、多くの負傷者、重傷者を手当てし命を救うのですが、中には「会津戦争で重傷を負った大山巌を治療し一命を救う」という大きな出来事がありました。
歴史秘話ヒストリア風に言いますと『歴史に“たら”はない。と言われますが、もし大山巌がこの時落命していたら、日清・日露戦争の活躍はなかったのです。』そして、日本の医療にとって何より大きな功績は「負傷者に敵味方の区別はない」という“博愛精神、赤十字の精神”を根付かせたことです。こういった話はインターネットでは出てきません。身内、ひ孫の手木さんならでの“深い話”だと感じ入ります。
ウィリスは日本各地で起こる戦争に従軍する傍ら、東京に医学校、病院を作り、自ら院長となって後進の指導にも当たります。後に東大医学部となり、我が国、総合病院の基礎になっていきます。
1871年 日本人女性、八重と結婚。息子のアルバートが一時オーストラリアで生活をしたとのこと。ここで日豪協会とのつじつまを合わせておきます。そして手木さんは、このアルバートの孫に当たる方なのです。
鹿児島でも医学校を作るなど多くの実績を残したウィリスですが、食生活、公衆衛生、予防医学といった西洋の知識を惜しみなく紹介し、日本人の日常生活を変えていったようです。現在の日本人の生活の基を作ったと言えるかもしれません。
パワーポイントで当時の戦争の絵や西郷隆盛など歴史的な人物の写真を数多く紹介しながらのお話でしたが、手木さんの話ぶりは、あたかもウィリスのすぐそばに居て同じ時を過ごしているかのような臨場感に溢れ、一大歴史絵巻を唄って聞かせて頂いているような1時間15分でした。終わったところで、夢から覚めたような気がしたのは決して私だけではなかったのではないかと思います。日本史の表面に出てこなかった、こんな外国人が居た事を会員の方も是非お見知りおき下さい。 (文責:出野徹之)